仏教の言葉で因果一如という言葉があります。因果応報という言葉をご存知の方は多いと思いますが、因果一如はあまり知られていません。実は因果一如という言葉には、何かを始めるときに大切な言葉なのです。
何かを始める時は、迷ったり不安になったりする気持ちが膨らんでしまうものです。しかし自分が一歩踏み出した先にある結果は、因果一如の教えではすでに結果が出ているといいます。
これは一体どういうことなのかをひもときながら、因果応報との違いを踏まえて紹介しています。
因果一如と因果応報
原因と結果のことを因果といいますが、この言葉はもともと仏教で用いられる言葉です。因果の付く言葉といえば、因果応報が有名です。もう一つ、仏教の教えとして因果一如という言葉があります。
あまり知られていませんが、因果一如もまた人間回来ていく上でとても大切な教えを説いている言葉です。因果という言葉そのものが、行為や行動がその先の運命を決定するという意味を持ちます。
しかし原因と結果についての見方や捉え方は一つではありません。ここでは因果応報との違いを踏まえて、因果一如について紹介していきます。
因果一如は原因と結果がつながっているという考え方
因果一如とは原因と結果はつながっているという仏教の考え方です。結果はすでに原因が生まれた時点ですでに生まれています。つまり、努力をしたから善い結果になるわけではなく、なにか努力をした時点で何らかの結果が生じるという事実を大切にする考え方です。
結果が必ずしも善いとは限りません。しかし悪いとも限らないのです。結果の善悪に関係なく、何かを始めた時点でなにかの結果が生まれており、そのことをまず認めましょうというのが因果一如の教えです。そして、だからこそ何かを始めるときには精一杯全力で一つのことに打ち込むことが大切であると説きます。
因果一如のうちの「一如」も、仏教の用語です。真如の現れ方はさまざまであっても、その中にたどる根本は一つであることを意味する言葉です。真如とは宇宙にある根源となる実態を意味しています。もっと一般的な言葉としては、一体であり不可分であることを広い意味で一如を用いることもあります。
因果応報は原因の報いとして結果があるという考え方
世の中には報いがあるという発想に立つのが因果応報の立場です。因果応報とは、善い行いをすれば結果も善いという考え方です。悪い行いをすれば結果も悪くなるので、例えば人を恨めば巡り巡って人から恨まれているという意味です。
善悪の行いに応じた吉凶や禍福を得ることになるため、常に考えながら善い行いをすることが求められるという立場に立ちます。報いは行動の結果として、身に降り掛かってくる事柄ですが、悪い行為が結果としてもたらされることに多く使われる言葉です。
そのことから、自らの戒めとして因果応報を意識している人も多いです。結果に善い悪いが伴うのが因果応報の考え方で、この点が因果一如とは違った視点を持っています。
因果一如と因果応報の違い
因果一如も因果応報も甲乙はつけがたい教えです。因果一如を人生に取り入れることで、積極的に行動できる体質になることができます。因果応報をかえりみれば、結果を踏まえてより広い視野で物事を考えられるようになります。
この2つの言葉は視点が違うだけで、相反する意味を持っているわけではありません。因果一如と因果応報は、相反するわけではなく行動に移す際に意識するシチュエーションが異なるのです。それぞれの言葉のいいところを踏まえて、どのように人生に活かしたら良いのかを考えていきます。
因果一如ははじめに心得ること
因果一如は、初心として心得ておきたい言葉です。誰しもいい結果を出すために何かを始めるものですが、結果が悪いことはよくあることです。しかし結果の善し悪しにとらわれずに何かを始める時、その努力した分を素直に認めてあげることがとても大切なのです。
因果一如は結果にとらわれず、客観的に俯瞰した立場を取ります。結果の善悪に関わらず、何かを始めた瞬間に何らかの結果は必ず出る、だからこそ臆せずに何かを始めることに意味があると背中を押してくれる言葉なのです。
悪い結果を恐れて何もしないことは、失敗もありません。しかし結果そのものがないので、成果すら何もありません。失敗すらも因果一如の考え方では成果です。その失敗から学べばいいですし、そこから新たに何かを始めれば次の新たな結果を生み出していくのです。
因果応報は結果から判断する考え方
因果応報は、結果が悪かったときにこれまでの行いの中に原因になる悪い部分を見つける視点です。結果が善かったときに、何故善かったのかを省みるときにも因果応報の視点はとても有益です。
しかし、悪い行いなのか善い行いなのか、結果が出たとしても明確には判断できないことはたくさんあります。そんなときには、因果応報との教えはやや強引な答えになってしまいます。何らかの結果が出たときにも、誰かの立場や主観がはっきりしていないと善悪は判断できません。それは結果には二面性があるからです。
立場が変われば、善い行いとも悪い行いとも捉えることができます。因果応報の場合は誰の立場に立つのかによって答えが変わってしまうのです。また今の結果では善いと判断できても、その先は悪くなることもあります。
因果一如の初心を持って因果応報と捉えて省みる
因果一如は善い結果、悪い結果の判断をひとまず置いておき、今何かを始める時は結果を出すために全力をつくすことが大切だと説きます。
因果応報は、より良くするために結果を受け止める際、それが自分や周囲にどう影響したのかを考えるときにはとても大切な視点になります。因果一如の考え方には結果への評価がありません。純粋に自分の意志を貫くことが最も大切だということを教えてくれます。
ある地点まで来て結果が見え始めたときに、自分にとってその結果が善いのか悪いのか判断できます。自分の意志で何かを始めるときには、因果一如を胸に抱いて始めることで目標までやり遂げることができるでしょう。次の結果に向けて軌道修正するときには、因果応報の視点が次の結果に影響を及ぼすのです。
因果一如の考え方に基づいて生きるとは
因果一如は行動に移すときに意識すると良い教えですが、具体的に人生のどのような場面で活きてくる考え方なのでしょうか。人生は魂が経験を積み、学びを得るための修行と考えると、因果一如の視点に立つことが即ち生きることと考えることもできます。
これは、学ぶことは全て何かを始めたからこそ得られることだからです。では実際に日頃どんな場面でこの教えを意識することができるのでしょうか。因果一如の教えをどのように生活の中に取り入れていけばいいのかを考えていきます。
因果一如の立場は善悪がなく結果に翻弄されない
原因と結果がつながっている以上、何かを始めた時点で何らかの結果を生んでいます。このため、何かを始めることにとても意味があります。結果にとらわれたり恐れたりするだけでは、学びは得られないのです。
因果一如の教えから得られることは、翻せば今を大切にというメッセージです。そして始めたら悪い結果と断定して辞めてしまうのではなく、続けて努力していくことも大切です。生きていることが、すべて魂の修行であり学びであるのならば、生まれてきたこともまた因果一如の立場で何かを始めたことにほかなりません。
俯瞰して物事をとらえ、暫時的な浮き沈みに翻弄されずに、一日一日を懸命に生きることが今の私達にできる最善の努力なのです。
結果が怖い時でも立ち止まらずにとりあえず始めてみる
因果一如は今の自分の行動に不安が出てしまい、一歩が踏み出せないときに思い出したい教えです。結果に翻弄されずに迷いなくはじめたいときには、因果一如を思い出しましょう。今何かを始めるからこそ、その先に結果が生まれます。はじめから結果に振り回される必要はないのです。
例え結果が悪かったとしても、それは次の目標のための判断材料になります。歩みを止めなければ、その場所で終わることはないのです。その場所からまた何かを始めれば、また一つの結果につながっていくのです。必ず何かを達成しなければいけないと気負い、失敗や挫折を恐れることはないのです。間違ったら何度でもやり直して、また始める、その繰り返しの中から多くの学びを得ればいいのです。
信じていたのに失敗したなら気づいた時点で修正する
何かを始めることはそれだけで意味があります。因果一如は、うまくいかなかったとしても、始める時はこれが正しいと疑わずに行ってみる気持ちの大切さにも気づかせてくれます。
つまずいてしまった時は、次を見据えて「これで絶対うまくいく」と信じられる答えを握って、もう一歩を踏み出しましょう。因果一如の考え方では、気づいた時点で修正していくことができれば、それはまた一つ結果につながったのです。
因果一如は、すべての行いを肯定的に捉える考え方なのです。考えることや行動をやめてしまうことは、自分を信じることも同時に辞めています。
止まってしまったり辞めてしまったりしたら、その場所からでは「うまくいく」ことはないのです。今を信じ、結果を信じて今できることを精一杯努めていくことが大切です。
まとめ
因果一如という考え方は、何かを始めたときにすでに結果は伴っているという考え方です。ですから、因果応報のように「悪かった」「良かった」という観点で結果を見ません。確かに、ある地点に到達すれば何らかの成果が結果として見えてくることがあります。
しかし良いか悪いかがすべてではないと因果一如は教えてくれます。何かを帰りみて今後の反省として考えるとき、因果応報の視点が役立つこともあります。しかしすべての物事には二面性があり、良いことと悪いことは二律背反であるともいえます。
因果一如は、なにか起点になることが起こったとき、すでに何らかの結果は生じており、それがすべてであるという考えに基づきます。何かを始めたときの「第一歩」がすでに結果に繋がっています。
因果一如は、結果にとらわれず魂や人間としての学びにつながっていることはとても豊かなことであり、素晴らしいことなのだと教えてくれる言葉です。