第三の目は実際の目玉が額に現れるということではもちろんありません。また、実際の目のように何かを視覚でとらえるということでもありません。むしろ、ここでいう「目」は感覚のことを表しています。第一の目は文字通りの目として視覚です。第二の目は視覚を除く五感に該当します。第三の目は、そうした五感を超える第六感を指します。
第三の目は比喩的な言い方をすれば、心の目で見る、ということであり、感覚を超えたところで物事を知覚するという意味を持ちます。
もくじ
第一の目は日常生活を支える視覚情報の世界を見る。
第一の目は普通の人が世界を見ているときの視覚です。これは映像であり、文字通りの目です。日常的に私たちが目にしている世界は視覚情報といっても過言ではありません。目の前の光景を理解するためには、まず、眺めます。モノとの距離や関係を測るときには目視を行います。目から入ってきた情報を元にして、世界の地図を描き、そのなかで生活をしています。
目の前の世界だけに限らず、私たちは知識を得るときには文字や映像を見たりします。他人とのコミュニケーションは本来目に見えないものですが、電子メール、メッセージアプリといった文字媒体を活用することで可視化することができます。私たちの日常は視覚情報によって支えられています。
第二の目は感覚情報によって形作られる世界を見る。
第二の目は五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)のうち、視覚を除いた4つです。たとえば、この世界に存在するもののうちで「つるつるしたもの」「ぬるぬるしたもの」「ざらざらしたもの」を思い浮かべてください。これは触覚が司る情報です。
同様に私たちは大きな音や遠いところから聞こえてくる音、いい匂いと嫌な臭い、甘いものや辛い物といった感覚を通じて世界を認識しています。私たちの体験している世界はこうした感覚情報を総合したものです。成長の過程で私たちの経験は感覚器官を通して得られたこういった情報によって形作られているため、新しいことがあってもこれまでの経験と類比的に理解することができます。
第一の目、第二の目では日常を超えられない。
五感、つまり、第一の目と第二の目で日常生活を送るのに十分な情報が得られます。しかし、日常から少し離れて、自分の存在を理解しようとしたときに感覚情報の貧相さが明らかになります。それを理解するのに、次の光景を思い浮かべてください。自分の姿を見るために鏡を用意します。自分の姿を見ることはできますが、それは本当に自分が「見たい」ものでしょうか。
おそらく、自分の存在がどのようなものであるのかという情報を知るために、鏡を使えばいいと考える人は少ないと思います。人は自己理解したい時、感覚情報は良い答えをくれません。あなたが自分の本質を知りたい時には日常を超えて、自分の本質を理解する必要がありますが、第一の目、第二の目では日常を超えられないのです。
感覚のノイズに支配されずに真実を直視することが必要。
ひとたび感覚情報に頼ることができず、自身の本質を理解しようとするときには、むしろ感覚情報はノイズになります。スピリチュアルな分野で、自己理解を深めようとするときには表層的な感覚よりも、瞑想などによって魂を自由にして向かい合うことが重要になります。
それは感覚経験をもとにしていては接近できません。感覚(第一の目、第二の目)によってとらえられるのはせいぜい事象や事実までであり、人が知りたいと願ってやまないスピリチュアルな世界を体験するには足りないのです。
第3の目に開眼することは直感に目覚めること。
第三の目は私たちの体内のエネルギーあるいは気でいうところの第六番目のチャクラに該当します。これは、五感をコントロールし、感覚を一つ上の直観からとりまとめる機能を持ちます。たとえば、私たちは何か悪いことがありそうだという根拠のない認識を「虫の知らせ」と言います。これは感覚に根拠をもちません。
また、ビジネスの企画などでも通常で考えていては思いつかないようなアイデアをどんどん引き出せる人がいます。これをインスピレーション(霊感)といいますが、これは第六チャクラの鋭敏な働きにほかなりません。サードアイに目覚めた人は、他人には見えないものが「見える」のです。ただし、感覚によって知るのではなく、直感的に理解するのです。この第三の目の開眼には、潜在能力を解放するためのヨガや呼吸法、瞑想などが有効です。
真実は感覚的なデータによって隠蔽されている。
真実と事実の違いは、それを知った時にどれくらいその人の行動を変えるかという点にあります。多くの事実(特に感覚的な経験)は日常的な世界を理解するために必要ですが、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、匂いを嗅げるもの、舌で感じられるもの、肌で触れるものがあなたの人生を変えることはめったにありません。
真実は感覚的なデータによって隠蔽されています。次のような反論も思い浮かぶでしょう。感動的な絵を見た時に、人は人生が大きく影響されたように感じるではないか、と。その通りです。しかし、それは視覚情報によって感動が引き起こされるのではなく、絵が魂を揺さぶるからであり、単なる目に映る事実ではなく、スピリチュアルな真実の力によってなのです。
スピリチュアリティへの目覚めが第三の目の開眼である。
こうした意味で、五感よりも上の直感や霊感への目覚めが第三の目の開眼です。そして、直感や霊感がアクセスするのは自己や世界の本質、スピリチュアリティです。この段階に至ると、霊魂が刺激され、五感の力も強化されます。同じように物事を見ているのに、細かな違いにいちいち気づく鋭敏な感覚の持ち主がいます。
その人は、目が優れているわけではありません。視力がいいからたくさんのことがわかるわけではなく、せいぜい、遠くのものが見えるくらいでしょう。なぜ多くのことに気づけるかというと、魂のレベルで自分にとって必要なことや世界についての本質を把握しているので、目で見えている多くの情報に惑わされず、本当に必要なことが見えるのです。
肉体と魂のつながりを果たす松果体。
私たちは肉体をもち、魂を持つ存在です。この二つの相いれない存在は脳の松果体と呼ばれる部位で結びついていると言われます。哲学者のデカルトは、松果体を魂の座としてここで肉体と魂の相互作用が発生すると考えました。
つまり、近代哲学の祖と呼ばれるような存在から、すでに松果体の重要性が知られていたわけです。第三の目はこの松果体の活性と深く結びついており、開眼がスピリチュアリティの世界の体験を導くのは、この器官が魂と肉体をつないでいるためです。
松果体の目覚めは肉体の不具合を調整する。
松果体を活性化させるとどのような効果があるでしょうか。この松果体は内分泌器と呼ばれる脳の器官であり、ホルモンバランスを調整しています。特に、最近睡眠との関係でとりあげられることが多いメラトニンが分泌されています。メラトニンは一日のリズムを調整するために必要なホルモンであり、この働きのおかげで日が昇ると目覚め、日が落ちると眠るという生活をすることになるのです。
もしもこうした内分泌器官が変調をきたすと、自律神経の働きが悪くなります。第三の目は通常の感覚を超える直感の領域を開くことで、その人に開放感をもたらします。その一方で、松果体の働きを活性化させて、心身のバランスを整える効果を持っています。
第三の目によって「感じ」がよくなる。
第三の目が開眼することで松果体の働きが活性化することは先に触れました。これによって、魂と肉体が活発に交流します。世の中には「察しが悪い」「鈍い」といわれる人がいる一方で、「気が利く」「よくわかっている」「鋭い」といわれる人もいます。この違いは感覚が鋭いからではなく、直感が鋭いためです。
世界の本質や自己の本質に対する感覚は、五感ではなく、むしろ魂の側にあるため、どれだけ感覚に刺激を与える努力をしても魂にアクセスできない限りはその人は鈍いままなのです。第三の目の開眼によって人は「感じ」がよくなります。この段階で、様々な感覚的なノイズに邪魔されずに本当に必要なことに注力することができるため、優れた判断や思考が可能になるのです。
まとめ
第三の目は五感を超えた直感を司ります。これは、体内のエネルギーチャクラでいうところの第六チャクラに該当します。
第三の目が開眼すると、日常的な世界を超えた本質を理解することが可能になります。この本質は、感覚にとっての事実ではなく、人の本質や世界の本質に対する真実にほかなりません。
真実は感覚によって隠蔽されやすく、ともすれば人は自分が本当に何をするべきで何がしたいのかということに気づかないまま、生活を送りがちになります。これを続けていると、その人は自他ともに認める愚鈍に堕落してしまいます。しかし、第三の目が開眼すると、鋭い感覚を取り戻します。瞑想やヨガや呼吸法に取り組んでいると、どんどん頭が澄んでいく気持ちになるでしょう。これが第三の目のひとつの現われなのです。