私たちの本質は、目に見えない霊的な世界にあります。人体模型を見ても私たちがその模型と同じようなものとして自分自身を認識しないのは、魂が存在しないことを知っているからです。ある意味では、私たちは日常的にスピリチュアリティについて理解しており、生命がないものと生命にあふれているものを見分けることができます。
こうした目に見えない世界の本質に作用する力がサイキックです。霊能力という日本語が充てられることもありますが、超自然的な力を指します。
スピリチュアリティに働きかけるのがサイキック
先述したように、日常世界のすぐ裏側あるいは内側には目に見えない本質の世界があります。私たちは自分自身の具象的ではない本質を霊的と呼称しますが、世界の霊的な側面に働きかける力がサイキックです。サイキックは不思議な性質を有しています。
サイキックは世界の霊的な側面に働きかける力ですが、人の魂と肉体がつながっているように世界のスピリチュアルな側面とマテリアルな側面は重なっているために、現実に影響力を持ちます。たとえば、念動力というサイキックは思念の力によって物体を移動させたり物体を変形させたりします。目に見える世界と霊的な世界がつながっているからこそこうした現象が起こります。
サイキックは特別な霊的能力を持っていること
念動力はあまりにも極端な例かもしれませんが、サイキックと呼ばれるのはものを考える、ことばを考えるという通常の能力と異なり、特別な霊的能力を指します。サイキックと呼ばれる能力と普通の物理的な能力の違いは過程がどの程度目に見えるかという点で理解できるでしょう。
私は「あなたの手元にあるペンをとってほしい」と口に出して伝え、ことばを受けた人がペンをとってくれるというのは極めて日常的なことです。しかし、二人がサイキックのひとつであるテレパシーの持ち主で、音声コミュニケーションなしでペンの受け渡しを完了していたらどうでしょう? 日常的に成立していることでも過程を吹き飛ばしてしまえるのがサイキックであり、その特別さです。
サイキックの基本は5感の霊的な拡張
人間の感覚は「目で見る」「耳で聞く」「鼻で嗅ぐ」「舌で味わう」「手で触る」という五感で表すことができます。しかし、私たちはこうした感覚的な対象以外にも「神」や「概念」といった具体的な対象物の思い浮かばないような抽象物を思い浮かべることができます。これは端的に具体的な事物だけではない抽象的な世界があることを示しています。
サイキックは人間の五感をきわめて抽象的な形で拡張した能力ということができます。たとえば、目で見えるものは形や色といった要素が具体的な視覚像を形作っています。しかし、形や色で表すことができないものを「見る」ことができたらどうでしょう。他人には見えないものや目に見えないものを見るという表現は矛盾をはらんでいるかのように思えますが、「霊を見る」という形で私たちは理解できます。
サイキック能力を持つ人をサイキッカーと呼ぶ
サイキック能力を持つ人はサイキッカーと呼ばれます。サイキック能力が特別な能力であるため、サイキッカーは特別な人ととらえることができます。人の考えていることが手に取るようにわかってしまう能力の持ち主は「サトリ」などと呼ばれますが、普通の人と違ったプライバシーの世界に生きているため、普通には生きられないでしょう。
しかしその一方で、サイキッカーは生まれもって特別な能力を備えていたわけではないともいわれます。ある日突然他人と違うことができることに気づいたという場合がほとんどなのです。プロスポーツの選手はアマチュアスポーツの選手と同じように競技に取り組んでいても異なる結果を出します。ある日スピリチュアルな世界に入り、その力に自覚的になった人は霊能の「プロ」と呼んでも過言ではないでしょう。
サイキックは視覚や聴覚などの五感と密接に関連
サイキックは特別な能力ですが、五感と密接に関連していることについて先ほど軽く触れました。同じような結果であっても過程が違うのである、と。なぜこうした形で私たちが能力を得るのかというと、私たちの霊的な本質は肉体とは別である一方で肉体とつながっています。
このために、私たちの霊的な力が現実世界に影響を及ぼすときには肉体のアナロジーとして作用を及ぼすのです。肉体と世界をつなぐインターフェースは五感であり、サイキックが五感の特別な現われとして生じるのはある意味当然のことでしょう。
クレアボヤンス(千里眼)とは霊的な見る力
クレアボヤンス、日本語でいうところの千里眼は視覚の拡張です。視力が極端に良い人と極端に悪い人を想像してみてください。視力が極端に良い人は東京タワーの一番上から見下ろしても下に歩いている人の目鼻立ちまで見えるかもしれません。逆に悪い人は目の前の人の顔を判別するのに苦しむかもしれません。
しかし、いわゆる目がいい目が悪いは程度問題でしかなく、壁を隔てたところにあるものを見つけたり、地中に埋められているものを見つけたりすることはできません。物理的な障壁や限界を突破するのがクレアボヤンスの超物理的・霊的な特性です。世界の本質は私たちの視界からは隠されたところにありますが、クレアボヤンスは視覚のようでありながら、視界に映らないものが見えてしまうのです。
クレアオーディエンス(霊聴)は霊的な聞く力
クレアオーディエンスは日常的な音以外に、普通ならきこえていない音が聞こえるという能力です。この世界の日常的な表面には表れない現象がスピリチュアルな世界では起こっています。クレアボヤンスは視覚とよく似た方法でその世界を認識しますが、クレアオーディエンスは聴覚とよく似た方法で霊的な世界を認識します。
たとえば、クレアオーディエンスを持つ人はパワースポットと呼ばれるような強い波動をもつ場所へ行くと、その魂の揺さぶりを音に変換して聞き取ってしまいます。人によっては誰もいないのに話声が聞こえるように感じられたり、妖精のような不可思議な存在がささやいてきている気持ちになったりすることでしょう。音ではないものを聞いているので不可思議に見えるということです。
クレアセント(嗅覚拡張)は霊魂を嗅ぎつける力
クレアセントは嗅覚の拡張です。霊魂のにおいをかぐ、というのはいかにも奇妙な表現のように思われますが、この場合もクレアセントを持つ人が感覚できない霊的な対象を、嗅覚のアナロジーとして認識しているととらえればよいでしょう。つまり、本来匂いがしない(するはずがない)対象の香りを嗅ぎつけているので、常識では理解できないのです。
たとえば、ほかの人は何も感じていないのに「においがする」と言っている人がいます。あるいは、この人は「いいにおいがする」「嫌なにおいがする」という表現で他人の目に見えない本質を言い当てられる特別な人がいます。これは匂いという表現で、魂の性質を語っているとみるべきです。
サイコメトリーは触覚の霊的な拡張である
サイコメトリーという能力は触ったところから何らかの記憶を読み取って、認識してしまう特殊な能力です。私たちの日常的に触れるものは物質的な構造を持つだけではなく、魂の世界にも同じように存在を持ちます。人が触れたという痕跡は物体の記憶のような形で魂の世界に刻まれています。
しかし、魂の世界に刻まれている情報を普通の触覚は感知することができません。しかし、触覚という形でスピリチュアリティを理解することができるサイコメトリーの力を有していれば、そうした魂の世界の痕跡である残留思念を認識することができます。ものにまつわる記憶や持ち主のことが何となくわかってしまう感の良さというのは、そこにあるはずのない情報を触覚によく似た形で認識していることから生じます。
共感を霊的な存在にまで拡張する例もある
私たちは他人の嬉しい顔を見ると嬉しくなったり、悲しい顔を見ると哀しくなったりと共感という性質を持ちます。これは、五感の総合的な産物であり、顔を見たり声を聴いたりして雰囲気を察することが基礎となっています。この能力が通常の近くの範囲を超えて広がると、テレパシーと呼ばれる能力になります。
テレパシーは音声やことばを用いずにコミュニケーションをとることができる能力です。ことばにしないで自分の意思を伝えると、能力のない他人には聞こえませんがテレパシーを受ける能力が開発されている人には理解されます。視覚や聴覚による翻訳をすっ飛ばして結果としての理解や共感を手にすることができるという超能力です。このサイキックは、受け手がいないと有効に機能しないという弱点を持ちます。
サイキックの目覚めと歴史からみる霊的な生き方
特別な能力は必ずしも豊かな人生を意味するとは限りません。サイキックに限らず、スポーツに秀でた人や勉学に秀でた人が幸せな人生を送ることが確実でないことからも私たちは優れた能力が結果に結びつかないことを知っています。たとえば、物事の理解が鋭すぎる人がいます。しかし、この人が他人をとんでもないのろまで間抜けな存在としかとらえられなければ、他人から浮いてしまい、見放されてしまうでしょう。
サイキックに関しては、さらに顕著であり、自分の能力を不必要に見せびらかしてしまうことで他人の猜疑心にさいなまれて社会的な成功を得られず、賛同も得られず、孤独に消えていくことになりかねません。
千里眼の御船千鶴子にみる不幸な生き方
日本にもクレアボヤンスで有名な人物として御船千鶴子がいました。彼女は情緒豊かな人物であったらしく、おそらくその感性ゆえにスピリチュアルな世界に接触したものと思われます。そうして得られた「透視」の能力を活かして、目に見えるはずがないものを言い当てるという成果を数多く残しました。
しかしその一方で、彼女の能力を学問的に明らかにしようとした人たちは、彼女の能力を証明することができませんでした。おそらく、この目の前の世界の姿をとらえるという科学の性質と、感覚的には得られない真の世界の姿をとらえるというサイキックは相容れないのです。御船千鶴子は若くして自死してしまいますが、サイキックを表立って利用することはあまり良いことではないのです。
スピリチュアリティとサイキックへの目覚め
サイキックの目覚めは世界の本質との接触です。この世の中には感覚的には理解できない本当の世界が存在し、それを霊的な世界と呼びます。この霊的な世界は日常に覆い隠されていますが、ふとした瞬間に姿を現します。常識人はこういったときに「疲れているから変な体験をした」「夢を見たから変なものを見た」と蓋をしてしまいます。
しかし、オープンな意識を持った人はその世界に触れたことでむしろ自分自身を変えていきます。こうして真の世界とのアクセスを残しておくことで、スピリチュアルな世界から働きかけられ働きかけるという関係をサイキックという力として獲得することができます。サイキックの目覚めの体験は何らかの鮮烈な感覚が伴うことが多いようですが、それは本当の意味では感覚ではないのです。
人の幸福のために自身の霊性を活用するべきである
サイキックは人の幸福のために利用されるべきです。多くの伝承や物語は特別な力を得た人はその力におぼれて破滅してしまいます。これは、特別な力を持つ人には特に当てはまることであり、力によって目立とうとしてみたり、他人を負かしてやろうとしてみたりすると、強烈なしっぺ返しを食らいます。
サイキックは人に目立つことがないように人の幸福のために利用するべきです。世界の本質に触れることによって、あなたは鮮烈なイメージとして大変なビジネスアイデアや発明を思いつくかもしれません。その時には、通常の思考プロセスと同じように「がんばって考えていたら思いついた」とするべきです。なぜなら、あなたが特別であるかどうかは世界にとってはどうでもよく、あなたのアイデアや発明が世界を幸福にするからです。
まとめ
世界の本質はスピリチュアルなものです。これが、私たちが知る神秘であるとすると、そのスピリチュアルな世界に働きかける力がサイキックです。私たちは肉体を持っており、精神と肉体が緊密な連携を保っているせいで肉体とは関係がない魂の働きまで肉体を通して理解しがちになります。
そのために、サイキックは五感を拡張した形で現れることが多くなります。一方で、物質世界と魂の世界が結びついているせいでサイキックは現実世界に影響を及ぼします。特別な能力を持っているからといってその特別な能力をひけらかしたり、自己顕示欲に飲まれたりしてはいけません。スピリチュアルに目覚めた時の開放的な気持ちをいつまでも忘れてはならないのです。