マントラとはおまじないのことです。スピリチュアリティは本当の世界、あるいは世界の全体に精神で接触することを含みます。こうした体験は神秘的体験と呼ばれます。神秘的体験というと、特別な体験を思い浮かべますし、実際に特別であることは否定できないはずです。
ですが、熱心に何かに取り組んでいるときに私たちが時間を忘れてしまい、まるで自分自身の体が周囲に溶け込んでしまうような感覚を覚えるように、「神秘」としか言いようがない状態は日常の中に隠れています。マントラ(おまじない)はこうした神秘の導きの役割を果たします。
もくじ
マントラ(真言)とはサンスクリット語で短い祈祷の語を意味する。
マントラは漢字で表現すると真言となり、文字面から受ける圧迫感が増しますが、何事も複雑に考えてしまうのは理解を妨げます。そもそもは古代インドの聖典などに使われていたサンスクリット語で「文字」や「ことば」を意味します。マントラは「ことば」のことなんだと思うと、とても平易に理解できることと思います。
現在ではマントラは短い祈りのことばを意味します。「南無阿弥陀仏」という宗教的な彩を持つことばも「ありがとう」というあいさつのことばも儀礼的な意味を持つという意味では、どちらもマントラです。
梵語(サンスクリット)起源は仏教と密接な関係。
サンスクリット語は梵語(ぼんご)ともいいます。これは、サンスクリット語の源流が造物主ブラフマンに由来するという古代インドの神話からきています。ブラフマンは梵天と書き、その神様から出てきたことばなので梵語となります。古代インドの文章語として広く用いられていました。この梵語を私たちが身近に知るときは、お経でしょうか。
仏教の始祖である釈迦は古代インドの出身であり、原始の仏典はサンスクリット語で記されました。そうした経緯からサンスクリット語は仏教のことばと勘違いされることがありますが、インド源流の宗教はサンスクリット語を用いています。とはいえ、日本人にとっては古代インドの伝承や宗教よりも仏教のほうが馴染みが深いのではないでしょうか。
マントラは仏教でも神秘主義的な傾向を強く持つ密教由来。
マントラとスピリチュアリティの結びつきは密教の世界からきています。複雑なことを考える必要はないと思うので、非常に単純化してしまうと、世の中に広く伝えられている仏の教えというものはお坊さんの説法のように、易しく話してもらえれば誰にも理解できるものです。これが顕教です。
しかし、一方で誰にでも理解できる考え方はありがたい話ではないのでは、という疑いを持つ人もいます。そうした人たちは世界の秘密があり、厳しい修行や修練を行わなければそこに到達できないと考えます。こちらの立場が密教です。この世界の秘密はスピリチュアルな世界と相性がよく、密教の修行の中で神秘に到達した人は何人もいます。マントラを通じて神秘を体験するという考えは密教由来です。
マントラによって没頭することによって神秘とひとつになる。
神秘を体験するということは、人間よりもはるかに大きい存在と魂のレベルで一つになることや、自分の肉体を超え出たような全能感を感じることです。つまり、神秘的な存在と一つになることを意味します。私たちは血のつながりや他人との縁を大事にしますが、こうした精神的なつながりがずっと高次元になったレベルでもつながりは存在します。
そのつながりの手段のひとつが、短い祈りの言葉を唱えることなのです。
没頭が目的であるため、マントラ自体は無意味でもよい。
祈りを捧げるというと具体的な信仰が必要になるのではないか、と思う方もいるかもしれません。特定の宗教を信じることでスピリチュアリティを獲得する人もいるでしょう。しかし、祈りを捧げることはその儀礼的な行為自体が目的であり、そこに没頭することによって高い集中力を得ます。ある種の瞑想であると考えてもよいでしょう。
近年ではマインドフルネスとして、世界的なリーダーが自分の体調や精神状態を整えるための手段として、あるいはストレスで体調不良をきたしている人の治療を目的とした心理療法のひとつとして瞑想は有力です。様々な生活のノイズに対して注意力を割いてしまっているせいで力を落としている人に集中力を取り戻すのです。マントラに何ら宗教的意味がなくても、その詠唱に没頭することでスピリチュアルの高みに達することができます。
マントラがもたらす瞑想とその効果効能。
マントラがもたらす瞑想状態は、様々なプラスの効果を持っています。少し思い浮かべてほしいのですが、時間を忘れて物事に打ち込んでいるときにその人はストレスを感じるでしょうか。おそらく、自分で気づかないほどに楽しくて仕方がないでしょう。では注意散漫になるでしょうか。間違いなくその人は集中しているはずです。では、この集中力は疲れるでしょうか。むしろ、最高のリラックスではないでしょうか。
マントラがもたらす効果は様々なストレスを忘れることであり、自分の注意力を取り戻すということであり、最高のリラックス状態に到達することにほかなりません。最高のリラックス状態の時に、人は自分の異なる側面を見つけます。これが自身の本質であり、隠されていた自分と向き合うことは本来の自分の能力に気づくことでもあります。
神秘は魂にあり、自分の本質と向かい合うことにある。
マントラによる瞑想状態は神秘体験をもたらします。その神秘の根源は魂にあり、魂は自分自身の本質なので、ここでの神秘体験は自分の本質と向かい合うことです。ただし、普段は気づかなくなっていますが、人の魂は決して物理的な自己にとどまるものではありません。
物理的な自己の輪郭を超えたところに魂は存在し、魂が大きさを持たないことから、スピリチュアルな体験は自分自身を外側から眺めるような特殊な体験になります。世界の全体が自分自身の輪郭と同じようになって、すべてのことが一度に体験できるような感覚にさえ至ります。魂の輪郭は大きさを持たないため、自分自身の体験すべてと重なることができますし、宇宙とも一体化します。自分自身の本質に向かい合うことはそれほど強烈な体験なのです。
マントラによるリラックス効果は自分の中に深く潜るため。
マントラによるリラックス効果は、自分自身の内奥に深く潜って自分自身の輪郭を超越して外の世界と魂を一度に体験してしまうことによるものです。日常生活を送る私たちがなぜリラックスできないかといえば、肉体や心を縛るたくさんのルールがあるからです。
明日外国に行きたい、と考えてすぐに旅行できる人は幸いです。仕事の予定を繰り合わせるのも難しいし、お金も必要だし、飛行機も予約しなければいけないし……と実現不可能な理由が立ち並びます。法律や道徳といったルールだけではなく社会のルールや自分自身の決め事もルールです。こうしたこだわりは知らず知らずのうちに自分の首を絞めてしまいます。神秘的体験のレベルに到達すれば、こうしたこだわりを忘れることができます。それはリラックスの極致ではないでしょうか。
マントラが潜在能力を引き出すのも自分の中の深みに触れるため。
できないことを並べ立てるのはとても簡単です。なぜなら、目に見える制約や考えればわかる条件を並べていけば、何事も思うようにならないことの説明はできてしまうからです。それに比べると、自分がどうしたいかということを突き詰めて実現することはとても困難です。何かができた自分は何かができていない今の自分とは異なる存在だからです。
実は本人ができないと思っていることも本人が思い込んでいるだけということは少なくありません。潜在的にできるはずの自分に出会うのは簡単ではないのです。しかし、人の内奥には自分の出会っていない魂の自分がいます。純粋な魂はできない理由を並べ立てることはありません。潜在的な能力を示し、自信を与えてくれるのです。マントラはこうして潜在能力を引き出します。
様々なマントラは様々な神話や宗教に由来している。
マントラは祈祷のことばという性質上、様々な神話や宗教に由来したものになっています。祈りを捧げる対象というのは概して神などの高次元な存在であり、そうした存在は神話や伝承、宗教に由来するものだからです。とはいえ、近年のスピリチュアリティは必ずしも特定宗教と密接な関連をもっているわけではありません。
マントラもまた、宗教的な出自であっても、マントラを唱えること自体が宗教的な行為というわけではないのです。
ガーヤトリマントラは太陽神サーヴィトリーへの賛歌。
ガーヤトリマントラはヒンドゥー教の祈りのことばです。『リグ・ヴェーダ』と呼ばれる仏典に登場する太陽神サーヴィトリーを賛美するためのマントラです。乱暴に単純化してしまえば、サーヴィトリーをほめたたえることばを発するということです。
マントラは特定の宗教色を持っているわけではない、と先述しましたが、マントラの由来やマントラの意味を自分自身が望む姿と結び付けることで、マントラの効果をより大きく引き出すことができます。サーヴィトリーは宇宙そのものといったレベルの高位の存在であるため、賛美のことばは単なるお祈りの言葉というよりも世界に対する壮大な内容になっています。日本語にはない発音も含まれているため、CDや教本で発生の仕方を学んで進めていくのが良いでしょう。
クリシュナマントラはヒンドゥー教の神への賛歌。
クリシュナはヒンドゥー教の神であり、愛や美を司ることからクリシュナマントラを唱えることは恋愛運を引き寄せる効果があるといわれることがあります。とはいえ、恋愛だけを司る存在ではないことを考えると、恋愛成就を目的としたマントラとして実行する必要は必ずしもないと思われます。
しかし、マントラに没入する目的として、恋の悩みがあるならば、あえてクリシュナマントラを選ぶということもありなのかもしれません。自分が望むものをはっきりとさせたうえで、集中力を高めていくことはスピリチュアルな世界へ到達するためのプロセスとして妥当かと思われます。恋愛にうつつを抜かすことは他の目的にとってはノイズかもしれませんが、純粋に相手を思う気持ちは尊いものです。
オンシュオンシュダは古代インドの僧が作った魔よけのことば。
オンシュオンシュダは古代インドの僧が作った魔よけのことばです。これは魔よけのことばであり、邪気を払う効果を持つとされます。邪悪なもの、といえば超自然的な怪物や悪魔のような存在を思い浮かべるかもしれませんが、私たちの生活にもあふれています。たとえば、病気はどうでしょうか。病魔と呼ばれることもあります。病気は追い払いたいものですね。
このマントラは、多様なネガティブな存在を追い払う意味があります。自分に害をなしてくる存在だけではなく、自分が他人への嫉妬で身動きが取れなくなっていれば自らの嫉妬はネガティブな存在です。外側からくるマイナス効果をリセットし、自らの負の感情を追い払い、瞑想状態に入るためのマントラと考えれば間違いはないでしょう。
平凡な日本語によるマントラも存在する。
ことばは、呪術的な色合いをもちます。「言霊信仰」というものがあるように、ことばが発されると実際に世界に影響を与えるというものです。これは不思議な世界であると同時に身近な話でもあります。たとえば、身近にいる人があなたのことを「あなたなんか嫌いだ」と言っている光景を思い浮かべましょう。次に「あなたのことが好きだ」と言っている光景を想像しましょう。
前者はあなたの心を曇らせ、後者は晴らしてくれるのではないでしょうか。後悔のことばばかり口にしていると、人間としてダメになってしまいます。「あれは、あれでよかったのだ」ということばを繰り返し唱えるというのは、ネガティブな気持ちを肯定的なことばで遮断してしまうためです。
マントラの宗教色は本質的な問題ではない。
マントラは様々な意味を持ちますし、宗教的な出自も持ちます。しかし、平凡な日本語表現であっても、言霊の力でマントラとして意味を持つように、マントラによって瞑想状態に入るという目的からすれば、個別のマントラの宗教色は本質的な問題ではありません。
マントラを唱える回数は9の倍数であったり、108の倍数であったりしますが、これも宗教由来です。しかし、これも本質的な問題ではありません。
重要なことはマントラを唱える人が自分自身の深みに達することができるかであり、没頭することができるかです。それ以外は些細な違いといってよいでしょう。マントラを選ぶときにはことばの響きが魂にとって心地よいと判断できるかを感性で味わいましょう。
表面的な違いはスピリチュアリティにとって些細である。
多くの人には趣味やライフワークと言えるような行為があるのではないかと思います。たとえば、老人にとってのゲートボール。ゲートボールが好きで好きでたまらないという人もいるかと思います。しかし、競技の特性から若い時からしていたという人はほとんどいないのではないかと思います。
初めは人づきあいからだった、ということもあると思います。しかし、きっかけは今楽しんでいることと関係がありません。同じように、マントラをとりあえず唱えてしっくり来た時にその意味を調べて、さらに、深い世界に入っていくということも十分に考えられます。些細な違いにとらわれることは、スピリチュアリティの世界に入り込んでいくことを遅らせるだけでしょう。
マントラはことばの持つ力を信じて唱え続けることが重要。
マントラを唱えるときに、理屈は重要ではないと思います。しかし、「こんなことやっていて意味があるのかな」と疑念を抱きながら唱えていては十分な効果は出ないはずです。少し想像してみればわかることですが、瞑想を邪魔するのは雑音です。
自分自身の行為に疑念を抱くようなことはマントラのスピリチュアルな効果に対する明らかなノイズです。自分自身に深く潜りこむようなことをしているのに、自分でその集中の邪魔をしていては仕方がありません。マントラはそのことばの持つ力を信じて唱え続けることが重要です。
音は波動であり、人の存在もまた波動である。
音は空気を伝わる波です。ことばはそのことばを発した人の思念を波に変えて、別の人に伝えます。人の存在もまた波動であり、他人のことばを受け取って共鳴します。自分自身の体に影響を及ぼした波動を逆に変換してことばに込められた思念を抽出し、コミュニケーションが成り立つのです。
自分自身のことばを自分で聞くことも自分で引き起こした波に自分で共鳴することにほかなりません。私たちは直接魂を震わせるために頭の中で言葉を作り出して頭の中で聞くということがあまりうまくできません。それができるなら、自分の意志だけで瞑想状態と普通の覚醒状態を切り替えることができるようになるでしょう。しかし、普通の人にはそんなことはできないため、自分の思念をことばに出してそれを聞くという行為を繰り返すのです。
心を込めて魂に影響を与えることがマントラのポイント。
マントラの極意はどれだけ熱心に唱えるかということです。重要なことは自分でことばを発してそれを聞くという儀礼のなかに没頭することであって、没頭には卓越した集中力が必要です。ここにはある種の情熱、つまりことばに魂を込めることが必要です。私たちは本心から発されたことばと気のないことばを見分ける直観力を有しています。思わずうれしくなってしまうような「ありがとう」とそうでない「ありがとう」の判別ができます。
この判別能力は私たちの表層的な言語能力ではなく、存在そのものに備わっているのではないでしょうか。全身全霊を込めてことばを発することによって、集中力を高めなければ、マントラの効果を引き出すことはできないのです。
マントラの由来や意味を知ることで没頭する。
無意味な作業を続けることは、意味を求める人、それもスピリチュアリティに興味を持つような人には、穴を掘って埋めるといわれるような単調で無意味な作業は向かないはずです。おそらく、様々なマントラが由緒正しいものであるのは、熱心にマントラを唱え続けるためにはまずそのマントラにありがたさがなくてはいけないからではないかと思います。
しかし、熱心に唱え続けているうちに次第に、その意味や由来よりも、読経によって瞑想状態に入ることが重要になり、瞑想状態に入ると、自分自身の本質である魂と触れる喜びに変わります。この没入に至るまでのきっかけとして、マントラの意味の正当性があるのではないでしょうか。
毎日の生活では雑音があふれており、生命の力が阻害されている。
私たちの体も魂も波動によって成り立っています。自分の内側の「音」あるいは波動に注意を寄せることができれば、すぐにでも魂と一つになり、外界と内界が統一されたスピリチュアリティに満ちた世界に入ることができるはずです。この領域はまさに霊的な世界であって、生命力に満ち溢れています。本当の自分の居場所は心地よく、リラックスと潜在能力が解放されます。
しかし、いたるところに雑音があり、また、その無数の雑音に飲まれて生きることが日常になっている私たちは、本来の生命力が阻害された状態しか知りえなくなっています。現代で、マントラの活用がこれほど着目されているのは、誰もが本来の自分や本来の生命力を取り戻したいからです。
マントラを通じて内なる真実と向き合うことで、生命力を取り戻す。
マントラを唱えたからといって超能力や異世界に行けるわけではありません。もしかすると、肉体を超越した魂が超自然的な力に目覚めたり、別世界を体験したりするようなこともあるかもしれませんが、神秘は珍奇な体験と同一ではないのです。
神秘的体験はいかなるところにもあふれています。というのは、魂の世界は内なる世界にあるからです。そして、内なる世界をすべての近くで受け止めるためには、マントラを唱えることに没頭するのが有効です。魂の世界に到達することができれば、そこにあふれる生命力に触れて人は本来の生き生きした自分を取り戻すのです。
まとめ
マントラは短い祈りを捧げることばを発することです。ことばが梵語(サンスクリット)由来であることからも、ヒンドゥー教や仏教といった宗教的な由来を持つものが少なくありません。しかし、平凡な日本語である場合も少なくありません。この場合でも、私たちはことばに神秘的な力が備わっているという言霊信仰をもっていることを忘れてはなりません。
マントラの力を最大限に活用するためには、情熱をもってことばを唱えることが重要です。ことばを唱えることは思念を波動に変えて自分自身で聞いて、そこに共鳴することであり、俗世界の雑音をシャットアウトし、心を澄ませることで瞑想状態の極致に至ることができるのです。