スピリチュアル

デジャブの2つのスピリチュアルなパースペクティブで視野を広げる

私たちの記憶はあやふやなものです。いつどこで何をしていたかということははっきりしないことが多く、時間が経てば忘れてしまいます。動画にでも焼き付けていれば、いつでもどこでも過去の情報を再生することができるでしょう。

一方で、私たちの記憶には単なる記録とは異なる性質がたくさんあります。昨日食べたことはすぐに思い出せなくなりますが、人生の中で大きな意味を持つことはなかなか忘れません。

デジャブは初めてのことに以前見た気がする既視感である。

私たちは、どういうわけか以前経験したことがないはずなのに、すでにどこかで見た気がするという印象を抱くことがあります。この感覚を既視感=デジャブといいます。

これはとても不思議な感覚であり、経験です。初めて会った人なのに、どこかで会った気がしたり、初めて見る映画なのにもう何度も見たような気になっていたり、と様々です。こうした不思議な感覚はスピリチュアリティへの道になります。

既視感を抱くことに関する心理学的な説明はある。

記憶や感覚に関する研究は心理学で行われてきましたが、デジャブもまたそうしたトピックの一つです。しかし、多くの人がそうであるようにデジャブは不意にやってくるものであり、狙って経験できるものではありません。また、デジャブがそもそもどのように発生するかという状況もはっきりしていないため、実証を行うには再現可能性が低いテーマとなっています。

理論的には、既視感は特定の記憶に対して起こるのではなくあくまで感覚であるため、記憶として保存されるメカニズムと印象を作り出すメカニズムの差で説明されます。脳はいろいろなメカニズムから成り立っているため、意識的な体験を作り出すメカニズムと情報を記録するメカニズムは別個に働いています。意識が働く前に、情報がすでに蓄積されていれば初めての体験に既視感が生じてもおかしくはありませんね。

心理学的な説明は本当の意味で納得を与えない。

とはいえ、こうした心理学的な説明に皆さんはどこまで納得感を感じるでしょうか。人は紛れもなく一つの生物なので、ほとんどすべての営為に対して生物学的な基礎を与えることができます。私たちの祖先と私たちが生きてきた環境を詳らかにしていけば、私たちの生物としての側面の多くは説明できてしまいます。そこに、人が作り出した文化を加えれば、ほとんどのことは心理学的で合理的な説明が可能です。

しかし、人生の生きる意味や豊かさを知りたいと思っているときにこうした情報は十分でしょうか。納得できない人が多いのではないかと思います。私たちは合理的な説明が聞きたいのではなく、人生に与える意味、そしてそれを知ることで人生が素晴らしいものに変わるようなトリガーを探しています。

既視感をスピリチュアルにとらえることができる。

既視感=デジャブもまた、人生に対する常識的なモノの見方をがらりと変えるようなトリガーになりうるものです。私たちの住んでいる世界は基本的には常識的で物質的な世界から成り立っています。ここでは物理的な法則や生理学的な欲求が主役です。おなかが減った、時間は時計の進みと同じように進む、といった世界です。

しかし、私たちはこうして自分の生活について外から眺めているとき、実は本当に常識的なモノの見方の外に出ています。私たちはモノを考えているときには脳や心を利用しているだけではなく、物質的ではない魂を利用しています。記憶は肉体に貯蔵されているだけではなく、魂にも刻まれています。デジャブもまた、魂の面から意味づけることが可能なのです。

スピリチュアルな見方は人生を広げる。

普通に物事を考えてしまうと、常識やルールに阻まれて自由に物事を考えることができません。本来は自由なはずの魂はつまらない日々のルールでいっぱいに埋め尽くされてしまい、窒息してしまいそうになっています。本当は楽しく人生を生きられるはずなのに、魂の喜びではなく、肉体を尺度にすることで不満足であふれてしまいます。

しかし、ひとたび、自分の肉体から少し外側(あるいはもっと内側)に目を向けると、そこには非物質的で常識的なルールに従わない魂の世界が広がっています。スピリチュアルな物の見方をするということは魂の世界に入門するということであり、それによって人生は固定観念からもっと豊かな領域へと広がっていくのです。

デジャブには複数世界仮説とアカシックレコード説がある。

スピリチュアルなデジャブの見方で有力とされているものには複数世界仮説とアカシックレコード説の二つがあります。

複数世界仮説は私たちの住んでいる(と思っている)世界は無数の次元の中の一つであるというものです。アカシックレコード説は人一人ではなく私たち人類全体が共通の記憶を持っているというものです。二つの説は異なるものですが、どちらも、現在の生活の意味を大きく変える力があります。

どちらの説も世界を生き生きとしたものに変える。

複数世界仮説を採用しようとアカシックレコード説を採用しようと、常識的な世界観から大きく変わるのはデジャブが心理学的な記憶のメカニズムではなく、魂の在り方についてのメカニズムになります。現代社会で教育を受けると、様々な知識が得られますが、困ったことに学校でいくら勉強しても自分自身が本当はどのような存在であるかということは教えられません。

私たちの本質、つまり霊的な性質こそが幸福や安心の源であるのに、これはおかしなことです。デジャブに関するスピリチュアルな仮説のどちらを信じても、確実にその人を変えます。なぜなら、そうした理解を通して外の世界ではなく自分の存在について考えることができ、自分の在り方を見直すことで自分の人生を生き生きしたものに変えられるからです。

複数世界仮説は「現在」を霊的に豊かにする。

たとえばバシャールのように、過去・現在・未来を同質で一方向に進むものという常識的なモノの見方を覆すならば、複数世界仮説は有力です。

常識的に理解する分には私たちには現在に至るまでの過去があり、現在の決定に従って未来が生じます。しかし、過去は変えられないことであり、過去の影響で現在を生きる私たちは過ぎ去った時間の奴隷です。

しかし、デジャブが複数の世界が同時に、しかも「いまここ」にあることを示していたらどうでしょうか。過去に縛られたまま未来のことを考える必要はなくなるはずです。平凡な因果律を超えて、自分自身の魂を活性化させることで「現在」はとても豊かになります。

アカシックレコード説は「過去」との連続で豊かになる。

現代人は孤独に苛まれています。こんなにもたくさんの人がいるのに、なぜ多くの人が寂しい気持ちになるのでしょうか。

私たちは「きずな」ということばを知っていますが、手をつないだり、抱き合ったりするだけではきずなは形成されません。きずなは精神的なつながりです。つまり、魂の次元で人と人が理解しあったり、コミュニケートしたりすることで安心や充足感が得られます。

アカシックレコード説は人の記憶が人類の種としての記憶につながっていることを示します。デジャブはまさにそれを表現する1パターンです。もしも日々の生活が人類の大きな「過去」に接続されているとしたら、私たちの魂はとても大きなものと常に触れ合っており、孤独ではないことを示しています。

現在・過去・未来に縛られない現象としてのデジャブ。

複数の世界が同時に並行的に存在しているという世界では、デジャブを見るのはまさにある現在の世界とある過去の世界が交錯したからに他ならなくなります。肉体は複数の次元で共有されているわけでも行き来できるわけでもありません。

しかし、スピリチュアリティは肉体を超越したところにあり、現在の自分の目の前の世界を抜け出して別の世界に行きつくことができます。初めて見た経験であっても、それとよく似た過去を目撃した可能性がどこかにあるかもしれません。デジャブは異なる世界のつながりを示しています。

デジャブがあることで、現在のスピリチュアルな豊かさを感じる。

複数の世界があることは普通の感覚では感じ取れません。非常に楽しい時間を過ごすときには、同質的で連続的な時間が破れてすべての平行世界が現在に現れます。とはいえ、そうした感覚はなかなか実感がわきにくいのではないかと思います。

豊かな魂の世界を理解するには私たちの日常の経験は不十分なのです。しかし、デジャブは過去の記憶と思っているものが異なる可能性でありえたということと、現在の自分が違う過去にアクセスできたという証拠でもあります。つまり、何気ないタイミングで訪れるデジャブの感覚を通じて、私たちは異なる世界と魂が異世界にわたって存在していることを知るのです。この見方によれば、いまここにある現在のスピリチュアルな豊かさを知覚できるのです。

デジャブから自分の人生のあらゆる可能性を感じる。

デジャブから複数の世界の存在を感じることができれば、現在の自分の存在がどれほどスピリチュアリティにあふれているかということがわかります。この世界の過去は変えられないかもしれませんが、別の世界の過去にアクセスすることができるのであれば、自分自身がいろいろな可能性でありえたということが感じられることでしょう。

自分の様々な可能性を知覚し、過去の様々なありようを感じることで、未来もまた複数の世界に枝分かれしていることがわかるはずです。自分自身が選んだ結果が過去の自分であり、未来の自分を決めます。人は時には自分の力が無力だと思いがちですが、自分自身の別の可能性に思いをはせることで未来を自分の思うように変えるという無限の可能性を感じるべきなのです。

アカシックレコード、すべての記憶・記録と関係としてのデジャブ。

よく日常会話の中で「私たち」ということばで集合としての人を指すことがあります。何気なく日常的な使い方をしているせいでよくわからなくなっていますが、完全な個人として人間が存在していたら、「私たち」という表現には強い違和感を持つはずです。

そうならないのは「私たち」が、いわば集合的な生命として実在しているからです。この集合的な人類の記憶がアカシックレコードであり、自分の直接の経験でない他者の経験に触れた時にデジャブが生じます。

私たちは人類全体の集合的な無意識にアクセスする。

他人との一体感、場の空気といった表現に現れる集団としてのまとまりを想像してみてください。人は確かにその中の一人でしかありえないはずですが、感覚や感情を他人と共有している状態にあると感じられるでしょう。気分が昂った時には他人との間の関係が崩れて、一つの精神になったかのような気持ちにさえ陥ります。

これがもし、錯覚などではなく、実感であったならどうでしょう。たとえば、歴史を紐解けば時代を代表する有名人がいます。彼らが文字通り時代を代表していたらどうでしょうか。つまり、人類という種族の記憶があり、その記憶を代表する個人がいるというわけです。彼らが才能にあふれているのは人類の集合的な無意識、つまりアカシックレコードにアクセスしているからではないでしょうか。

人は決して一人ではなく、常に誰かとつながっている。

私たちは、まさにこうして「私たち」という表現で人を示しているときには人類という集団を主語にしています。人は個人として存在しているのが普通のように見えますが、実は日常的に、常に誰かとつながっています。物理的な世界で見ると他人と距離を置いているため、つながりが隠れてしまいます。

本当に大事なつながりはスピリチュアルな世界にあるのです。アカシックレコードという巨大な集合意識を通して、私たちは決して一人ではなく、連綿と続く種の一部であるということがわかります。現代社会は孤独で悩む人が多くなっていますが、スピリチュアリティへの目覚めによって孤独を根本的にかき消すことができるのです。個人の行動のすべてが人という種の記憶に保存されると思えば、人の一生の価値もまた変わるはずです。

まとめ

デジャブは日常性の破れであり、その裂け目からスピリチュアルな世界への入門を果たすことができます。デジャブは選ばれた特別な一部の人だけではなく、多くの人が日常生活の中で感じている経験です。ある意味では極めて民主的な神秘体験といってよいでしょう。

しかし、ありふれた神秘体験に意識を向け、様々なノイズを遮断して声を傾けてみることで、魂の世界を知覚することができます。もしもデジャブについて、常識と地続きの心理学で理解してしまえば、魂の本性について知る経験が失われてしまうことでしょう。

不思議な経験の特別な性質を理解して、魂について深く知る心構えを持つことで、失われがちな自分らしさや生き生きとした感覚を呼び戻すスピリチュアリティに通じることができるのです。